夏の夜

「…………なんの音?」
 僕はだらしなく転がった畳の上で呟いた。
「起きたのか」
「暑いしうるさいし……寝てらんないよ。で、なんの音?」
 汗で額に張り付いた髪の毛をかき上げながら、のろのろと体を起こす。
 夏の夕方に昼寝なんてするもんじゃない。暑さにやられて、まるでゾンビだ。体力を取り戻すはずが、自然の猛威の前に徹底的に削り取られる。
 だが、少しでも寝ておかなければ夜の住人の相手には持たないのだ。仕方がない。
「ほら、見ろ」
 銀髪の男が指差した先は明るかった。眠りに落ちる前、たしかに夕方を迎えたはずなのに。
 「…………花火?」
 いくつもの華やかな赤や紫の光の玉が天空を飾り立てている。先程から僕を悩ませていたのは、光の花が開くたびに聞こえる打ち上げ音だった。
「あーっ、今日花火大会だっけ。どうして起こしてくんなかったんだよ」
「気持ち良さそうに寝てたじゃないか。そんな話聞いてないし」
「もうっ、気が利かないな」
 僕は慌てて立ち上がり、めくれ上がってしわしわになったシャツの乱れを整えた。
 打って変わって生気を取り戻した僕の動きを、ノエルはきょとんと見上げている。
「何してんの。行くよ」
「行くってどこへ」
「吉野川。花火大会だってば」

 吉野川に近づくにつれ、僕は考えが甘かったと思い知らされた。
 川原どころか、花火が見られる場所は道端さえ人で埋め尽くされている。
 僕達は間近での見物を断念し、途中の公園へと入った。
 ビルの間から花火が見えるとはいえ、川辺よりはむしろ駅に近い繁華街の中心地だ。しかし週末ということもあってか、ベンチも芝生もすでに大勢の観客に占領されている。僕達はうろうろと歩き回った末、植え込みの脇にどうにか二人座れるスペースを見つけて腰を下ろした。
 ドーン、と腹に響く振動とともに花火が上がる。その瞬間暗い園内が明るく照らされ、人々の姿が表情を見て取れるほど鮮やかに浮き上がる。
「すっげー。今の見た、見た?」
「美しいな」
 隣で空を見上げるノエルの顔にも、嬉しそうな表情が浮かんでいる。
「ノエル、来てよかっただろ」
「ああ」
「ノエルは僕が動かなきゃダメなんだから」
 得意げに笑うと、ノエルは呆れ顔に苦笑を交えて、僕の鼻の頭を指先で小さく弾いた。
 立て続けに上がる大小の花火は夜空の一角を埋め尽くし、そのたびに歓声が上がる。もちろん、僕も負けじと声を上げ、手を叩く。
 いよいよクライマックスだ。何発も何発も同時に打ち上げられ、大輪の花が咲き乱れる。
「うわあ…………」
 言葉を忘れて夜空に見入る僕の手を、ノエルが握った。僕も、ひんやりとした指先をきゅっと握り返す。
 ふたりとも、空から目は離さない。言葉も、見つめあうことすら必要ないのだ。
 僕達は指先で繋がったまま、束の間の感動を分かち合うだけで満足だった。

 最後の光が退き、やがて雲のように空を覆った薄煙が消えた。人々が帰り支度を始め、僕達の周りにふたたび静かな夜の空間が訪れる。
「はあ〜……花火って、やっぱいいなあ」
 高揚した気分が落ち着きを取り戻すと、ふと腕に強烈なかゆみを覚えた。
「あーっ、蚊だ。刺されてる!」
「はっはっは。そりゃ蚊も入れ食いだろう」
「ちくしょっ、あっ、こっちも」
 腕だけじゃない、サンダル履きの足も、首筋も、皮膚が露出しているところはすべて蚊の犠牲となったようだ。
「薬を塗るまで掻かないほうがいいだろう」
 ボリボリ音を立てて遠慮なく掻きむしるのは至福の行為なのだが、それをやんわりととどめられ、僕は苛々とその手を振り払った。
「無理。蚊に刺されたことの無いあんたには、このつらさ分かんないだろうけど、掻かないですむんだったらとっくにそうしてるっての」
「気を紛らわせばいい。そうだな……こうやって」
 僕の腕を掴み上げると、何を考えたのかノエルは唐突に腫れ上がった部分に唇を押し付けた。
「なっ……何してんだよ!?」
「毒を吸い出せるかもしれんぞ」
「いくらあんたでも…………」
 にっと笑うノエルの唇の赤に、僕はまじまじとその瞳をのぞき込んだ。
「……もしかしてできる?」
「さあ。やってみようか」
 ノエルの吐息が腕から襟元へと、赤いスポットをたどって滑っていく。
「なんで……首なんだよ」
「……ここも刺されてるからさ」
 喉の奥を楽しそうに鳴らしながら、冷たい唇が首筋に触れる。肌に伝わるこらえた笑いに、僕はようやくノエルの嘘に気付いた。
「ノエルーっ! からかってんな!」
「くっ、ふふ、からかうなんて。治療してやってるんだ」
「結構だよ!! あーもう、信じた僕が馬鹿だった! だいたい治すってあんた、蚊のご同類じゃないか!」
「憎まれ口だな」
 僕は首筋にじゃれつくノエルを押しのけようとした。だが、腕に力が入らない。かわりに首元から全身へと、震えるような甘い熱が広がりだす。
「まさか…………」
 僕は真っ青になった。
「や、ちょっと待った!! こんなとこじゃダメだって!」
「同類か。考えたら蚊にはもったいない。俺に吸わせろ」
 ノエルの声は低く、冷たい。抵抗などお構いなしに力づくで顔をうずめてくる。
 もがく僕。抱きしめるノエル。
 その間にも、熱病はゆっくりと体の芯を冒していく。
「やっ、やめろって、ノエっ……やめてやめてーっ!」
「もう遅い」
「ごめっ、ごめん! あんたと蚊を同列に並べた僕が悪かった! 謝るからやめてってば〜っ!」
「……ふうん」
 ノエルが呟いた瞬間、まるで潮が引くように興奮が消えた。体内の熱が一気に冷めていくのが感じられ、僕はようやく安堵の息を吐いた。
「はあ、はあ……危なかった…………」
 へなへなと脱力する僕から体を離したノエルは、無表情のまま口を開いた。
「で、どうだ」
「なにがっ!?」
「気がほかに向いたら、かゆみを忘れたろう」
「……はっ…………?」
「俺の治療も馬鹿にしたもんじゃないな。人間なんて単純なもんさ」
 いじわるく笑う彼の口元では、暗闇にもやけに白い歯が背筋の怖気を誘う。
 彼を怒らせた自分の軽率さを後悔しながらも、その意図を知って憮然と見つめ返した。
「…………さっきのお返しってわけ」
「蚊と同類にされたんだぞ。ひどい屈辱だ」
 ノエルは手を上げると、鬱陶しそうに体を払った。
「どうしたの」
「……興奮し過ぎたかな。蚊が寄ってきた」
 目を凝らせば、ヤブ蚊が羽音もにぎやかに二人の回りを飛び回っている。
「げっ! これ以上、冗談じゃない!」
「もう帰るのか」
「せめて蚊のこないとこに移動しようよ」
「俺は吸われないぞ。体温が上がったから寄ってきただけだ」
「だったら余計だ。僕が犠牲になるだろ!」
 なかば小走りに芝生を飛び出す僕を追って、ノエルはようやく立ち上がった。
「ふむ……それはやはりもったいないな」
 すまし顔で歩き出す。
「せっかくだから家に帰ってから俺が頂こうか」
 ———僕は血の気が引いていく音を聞いたような気がする。
「冗談に聞こえないよ…………」


—おわり—

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